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プロの定義2019.11.25 Monday
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次はこないだの春先にふらっと行った旅行について書きたいと思いつつ(次回こそは!)
もう季節は肌寒くなってきてしまいました。
その間には前回書いたモーツァルトも久方弾いたり
他にもなんだかんだ沁みる日々を過ごしてた感じです。
こないだ まだ私のピアノを知らない方から
「普段はプロにお願いしているのですが 云々」
と言われ、ふと、この方の『プロ』って何なのかなぁと思いました。
その分野を仕事にしている
その分野で有名である
その分野で活躍している
色々と理由はあるのだろうなぁと思いつつ、何となく複雑な心境になったのは言うまでもありません。
日々真面目に生きているつもりだし
ピアノを疎かに考えたことはないし
でも有名なのかと言われれば それは残念ながらそうではないわけで
その方の悪意のない何気ない一言に心がチクリとした頃から
気温もグッと下がった気がしました。
芸術って難しい。
私はこれをお金に結びつける事ができなかった。
それからは離したところに大事に置いた。
でも仕舞い込んでるつもりはない。ずっと稼働させているつもり。
ただ 人様にはあまり見えないところに置いているから
理解を得られる機会も少ない。
また一つ 生き方に関して考えました。
答えはもちろん 出ていません。
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久方モーツァルト2019.01.16 Wednesday
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新年明けの内輪会で弾いた久方ぶりのモーツァルト作品は
期待を裏切らないボロ感ですっかりガッカリしたのですが
これで懲りないのが不思議な彼のパワーってやつでして。
新しい作品をポロポロ弾き始めたら まぁこれまた美しいものが多くて
膨大な彼の作品からこれを人様に選んでもらって良かったと
その他の膨大さは置けるものならざっくりさておき感じたわけです。
そういうまだよちよちの譜読み段階で思って良いのか分からないけれど
ほんの少し、かなり少しだけ、「古典は自由だ」という感覚を覚えたこの頃です。
ロマン派や近現代派など、芸術は飛躍的に「自由」を目の前に吊るして突っ走るけれど
いやいやどうして、昔はどんな自由さなんだろうと思うわけです。
現代というのはその人がその人の中にある独自個性としての自由さであるのに対して
古典というのは誰の中にも同じように存在する共感感情さを伴う自由さ、とでもいいましょうか
なんだかそんな違う自由さを芸術の中に感じるわけです。
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